嘉納治五郎と言えば、日本柔道の父、日本オリンピックの父というイメージが強いのではないでしょうか。偉大な柔道家であり、日本のスポーツ振興に尽力した彼は、偉大な教育家でもありました。
幼少期より漢学・儒教・書道・英語を学んだ治五郎は、東京大学文学部に進学し、漢文学・和学・インド哲学・経済学・政治学・哲学・道義学(倫理学)・審美学を学びます。在学中から教職に就き、学習院教頭・高等師範学校校長・哲学館講師などを務めながら、日本武術の振興を推進しました。
治五郎は学問・柔術問わず、人に教えることが好きだったようで、次のような口述録が遺されています。
自分にとっては、人にものを教えるということが一種の楽しみであった
引用:加納治五郎『嘉納治五郎―私の生涯と柔道』日本図書センター,1997
それでは嘉納治五郎の功績を、教育者としての一面にクローズアップして見ていきましょう。
嘉納治五郎の功績
柔道の創始者、アジア初の国際オリンピック委員として知られる嘉納治五郎。身長158cmと小柄だった治五郎は、柔術の天神真楊流(てんじんしんようりゅう)と起倒流(きとうりゅう)を研究、改良し、体格が小さい者でも相手の力を利用して勝つことができる柔道を考案しました。心身を鍛えるのみならず、思考力も鍛える柔道は教育的価値が高く評価され、現在では世界的なスポーツとなっています。
治五郎は教育者としても非常に有能でした。幼い頃より英語教育を受けた治五郎の英語力はかなり高く、東京大学在学中に、学習院の政治学・理財学の講師として、日本語と英語で講義を行うほどでした。教師生活の後半では、灘中学・高等学校の創立者、日本女子大学の創立委員として、『精力善用』と『自他共栄』を基に学問とスポーツ教育を、生徒の身分を問わず行いました。
嘉納治五郎の柔道家・教育家としての主な功績は次の通りです。
・講道館柔道の創設
・日本のオリンピック
・アジア人初のオリンピック委員会として日本へのオリンピック招致に尽力
・東京師範学校(現・筑波大学)の講師・校長を務める
・哲学館(現・東洋大学)の講師を務める
・灘中学校(現・灘中学校・高等学校)の創立
・日本女子大学の創立委員として貢献
嘉納治五郎の略歴
柔道の根本理念として「精力善用」と「自他共栄」は、嘉納治五郎の教育家としての指導理念でもあります。事実、治五郎が創設顧問となった灘中学の建学の精神は『精力善用』・『自他共栄』でした。
精力善用とは、精神・身体のそれぞれの力を最大限に有用活用し、物事に取り組み、それを達成するということです。
自他共栄は自分自身と他人が共に繫栄し、お互いに利益を享受し合うことを意味します。個人の利益だけではなく、公共の利益も考慮することが、社会全体の発展につながるという、その当時では、非常に進歩的な思想でした。
西暦 | 元号 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|---|
1860年 | 万延元年 | 0歳 | 摂津国御影村(現・兵庫県神戸市東灘区御影町)で、父・嘉納治郎作と母・定子の三男として誕生。 菊正宗酒造・白鶴酒造を経営した嘉納三家とは分家筋に当たる。 |
1866年 | 慶応2年 | 6歳 | 画家・山本竹雲と医師・山岸氏に漢学・儒教と書道を習う。 |
1870年 | 明治3年 | 10歳 | 前年に母・定子を亡くした治五郎は、新政府に出仕する父(明治政府要人であった勝海舟の推挙による)と一緒に上京。 |
1871年 | 明治4年 | 11歳 | 生方桂堂が主宰する成達書塾で書を学ぶ。 |
1872年 | 明治5年 | 12歳 | 洋学者・箕作秋坪が主宰する三叉学舎で英語を学ぶ。 |
1873年 | 明治6年 | 13歳 | 育英義塾(校主は有栖川宮熾仁親王)に転塾し洋学・英語・ドイツ語を学ぶ。 |
1874年 | 明治7年 | 14歳 | 官立外国語学校(現・東京外国語大学)に入学 |
1875年 | 明治8年 | 15歳 | 官立開成学校に進学 |
1877年 | 明治10年 | 17歳 | ・開成学校が東京大学に改組され、東京大学文学部第一年に編入となる。 ・天神真楊流の福田八之助に入門する。 |
1878年 | 明治11年 | 18歳 | 漢学塾二松學舍(後の二松學舍大学)の塾生となる。 |
1879年 | 明治12年 | 19歳 | 天神真楊流の磯正智に入門する。 |
1881年 | 明治14年 | 21歳 | ・東京大学文学部政治学及理財学科を卒業 ・同年中に撰科生として文学部哲学科に編入 |
1882年 | 明治15年 | 22歳 | ・在学中に学習院の政治経済科講師を務める。 ・東京大学文学部哲学科を卒業 ・私塾・嘉納塾を創立 ・英語学校「弘文館」を創立 ・下谷北稲荷町永昌寺に講道館を創立。囲碁・将棋から段位制を取り入れた。 |
1884年 | 明治17年 | 駒場農学校の理財学教授を委嘱される。 | |
1886年 | 明治19年 | 26歳 | 学習院の教授と教頭を兼任 |
1887年 | 明治27年 | 27歳 | 哲学館(東洋大学の前身)で倫理学の講師を務める。 |
1891年 | 明治24年 | 31歳 | 第五高等中学の校長に就任 |
1893年 | 明治26年 | 33歳 | 高等師範学校(現・筑波大学)及び附属中学校(現 ・筑波大学附属中学校・高等学校)の校長に就任。在任期間は3期23年となった。 |
1896年 | 明治29年 | 36歳 | 文部大臣西園寺公望からの依頼で清国留学生13名を受け入れる。 |
1897年 | 明治30年 | 37歳 | 東京専門学校(現・早稲田大学)柔道部を指導する。 |
1899年 | 明治32年 | 39歳 | 私塾「亦楽書院」を清国留学生教育のために開設する。 |
1901年 | 明治34年 | 41歳 | 日本初の組織的な私立の女子高等教育機関となる日本女子大学校(現・日本女子大学)の創立委員となる。 |
1902年 | 明治35年 | 42歳 | 私塾「弘文学院」を清国留学生教育のために開設 |
1909年 | 明治42年 | 49歳 | ・私塾「弘文学院」を清国留学生教育のために開設 ・日本人として初めて国際オリンピック委員会(IOC)委員に就任 |
1927年 | 昭和2年 | 67歳 | 私塾「弘文学院」を清国留学生教育のために開設 |
1938年 | 昭和13年 | 77歳 | カイロで開催された国際オリンピック委員会にて第12回オリンピック大会の東京招致を成功に導く。 帰国途中の船内で肺炎のため死去する。 |
「精力善用」の「自他共栄」精神を培った漢学・儒教の教え
嘉納治五郎は、1860年12月10日(万延元年10月28日)に、摂津国御影村(のちの兵庫県神戸市東灘区御影町)で、父・嘉納治郎作と母・定子の三男として誕生しました。嘉納家は、後に菊正宗酒造・白鶴酒造を経営した嘉納三家の分家筋にあたる、御影村の名家でした。
治郎作は灘五郷の清酒を江戸に送る樽廻船業を生業としていました。幕府の廻船方御用達を務めていて、和田岬砲台の建造を請け負ったこともあります。次郎作は、人望のある人物でした。
勝海舟を高く評価していた函館の豪商・渋田利右衛門は、自分亡き後の勝の後援者として、次郎作を紹介する程、信頼していたようです。教育熱心な治郎作は三男・治五郎にも6歳から漢学・儒教・書道を習わせます。
治五郎が、柔道や学問を指導する際にベースとしていた「精力善用」と「自他共栄」の精神は、儒教を学んだことで培われたのでしょう。儒教は孔子を始祖とする、五徳(仁・義・礼・智・信)の徳性を養い、五倫(父子・君臣・夫婦・長幼・朋友)の関係を維持することを教義とする思想。道徳心が強く、礼儀を重んじ、年長者にも年少者にも、指導が熱心だった嘉納治五郎のルーツと言えるでしょう。
1869年(明治2年)治五郎が9歳の頃、母・定子が亡くなります。その翌年の1870年(明治3年)に、次郎作は勝海舟の推挙で新政府に出仕することが決まると、治五郎を連れて上京。彼に学問を続けさせます。1871年(明治4年)には、生方桂堂が主宰する成達書塾に入塾させ、書を学ばせます。さらに1872年(明治5年)には、洋学者箕作秋坪が主宰する浜町の三叉学舎に入塾させ、英語を学ばせ始めます。
東京大学在学中に教壇に立ち、25歳で教頭職に就く
1873年(明治6年)、13歳となった治五郎は育英義塾に転塾し洋学(数学・化学・物理学など西洋の学問の総称)・英語・ドイツ語を学びます。そして、1874年(明治7年)、官立外国語学校(後の東京外国語大学)に入学します。官立外国語学校は高等相当の教育機関ですので、治五郎の習得スピードはかなりのものです。
同校卒業後、1875年(明治8年)に官立開成学校に進学しますが、1877年(明治10年)に開成学校が東京大学に改組されたことで、文学部第一年に編入となります。向上心が高い治五郎は、1878(明治11)年には漢学塾・二松學舍にも入塾し、東洋文化・日本文化をより深く学ぶのでした。
1881年(明治14年)7月、文学部政治学及理財学科を卒業した後、すぐに撰科生として文学部哲学科に編入します。1882年(明治15年)に同科を卒業するのですが、卒業の半年ほど前から、学習院の政治経済科講師として勤め始めます。この学習院では彼より年長者が多く、旧藩主の家柄も者も多いため、尊大な態度の生徒も多かったようです。生徒たちに学問を修めさせるために、治五郎は学習院の教師たちの意識を変えることから始めます。真っ直ぐに同僚・生徒と向き合う真摯な姿は、人望を集め、1885年(明治18年)弱冠25歳にして学習院教頭となります。
負けん気・探求心の強さが柔道を生み出した
小柄で虚弱な体質だった治五郎。育英義塾・開成学校時代に体格の大きい者、力が強い者に負けることを、悔しく思っていました。自分のように小柄な者、非力な者でも、勝つことができる柔術を習得したいと父に願い出ますが、柔術は軽視される風潮であったことと、学問重視の家庭であったことが重なり、許しを得られません。
1877年(明治10年)にようやく、幕府の最後の講武所師範であった天神真楊流柔術の福田八之助に入門することが許されました。1879年(明治12年)には天神真楊流の磯正智に入門、1881年(明治14年)には、起倒流の飯久保恒年に入門し、それぞれ奥義を極めます。そして習得した流派を研究し、それぞれの良い点を取り入れ、自らの創意工夫を加えた「心身の力を最大限有効に利用する=精力善用」の柔術を考案します。柔道の誕生です。
1882年(明治15年)には永昌寺(台東区)の12畳の居間と7畳の書院を道場とする、柔道の総本山・講道館を設立しました。
治五郎が目指した柔道の目的は、単なる柔術の技の習得ではありません。攻撃・防御の練習による、身体と精神の鍛練を通じて、自己の向上や他者への尊重を学ぶことで、人格形成を促すことです。
以下は、講道館にある嘉納師範遺訓です。
柔道は、心身の力を、最も有効に使用する道である。その修行は、攻撃防御の練習によって身体精神を鍛錬修養し、その道の真髄を体得する事である。そうして、是によって、己を完成し、世を補益するのが、柔道修行究極の目的である。
引用:嘉納師範遺訓 http://kodokanjudoinstitute.org/doctrine/
柔道は己の心身を鍛えることで、人や社会に貢献できるようになることを目指した「自他共栄」のスポーツなのです。
体格を超えた勝利
学習院教頭を退任後、1889年(明治22年)~1891年(明治24年)に欧米視察旅行に赴きます。帰国途中の船中で、治五郎はロシアの海軍士官に力勝負を挑まれます。大柄なロシア陣に抱え込まれますが、彼の力を利用し投げ飛ばしてしまうのでした。加えて、頭を打たぬようにロシア人の手を持ち、支えるという紳士的な振る舞いをしたものですから、その場に居合わせた人々から大きな拍手が起きたそうです。後に柔道が世界的スポーツとして受け入れられた背景には、「相手を打ち負かすのではなく、敬意を払って対峙する」柔道精神へのリスペクトがあるのでしょう。
この出来事は、当時の『讀賣新聞』に掲載され、大きな反響を呼びました。
日本女子大学創立委員に就任
講道館での女子への柔道指導は1893年(明治26年)から開始されます。講道館初の女子入門者は芦谷スエ子。治五郎はスエ子の他、少数の女性に実験的に指導を行い、柔道が女性にとって、適切な体育法なのか慎重に見極めました。女性がスポーツをすることに否定的な意見が多い中、治五郎は「体力的に優れた男性による力技の柔道よりも、体力のない女性の柔軟さのなかにこそ真の柔道が受け継がれる」と説くほどまでに、女子柔道の中に柔道の本質を見出していました。
1901(明治34年)42歳で、日本女子大学校(現・日本女子大学)の創立委員に就任します。建学の精神は「女子を人として教育すること」・「女子を婦人として教育すること」・「女子を国民として教育すること」。柔道を通した人格教育に重きを置いていた治五郎の指導方針と重なります。
1926年(昭和元年)講道館に女子部が創設されました。当初は体育法・護身術として指導するにとどまっていましたが、女子の門弟が増えたことで、男子同様の本格的な指導となっていきます。桜蔭高等女学校(現・桜蔭中学高等学校)の第2代校長を務めた宮川ヒサや、1935年(昭和10年)女性初の柔道道場主となる小崎 甲子など、柔道界・教育界で活躍する女性を輩出するようになります。
東京師範学校(現:筑波大学)の校長に就任
欧米視察から帰国した年の8月に第五高等中学校長に就任すると、英語教師として松江中学からラフカディオ・ハーン(小泉八雲)を引き抜きます。ハーンは治五郎を通して、柔道の精神と日本の近代文化を学び、感銘を受けました。相手の力を利用して勝つ柔術「柔道」から日本人の柔軟さ、賢さを感じ取ったハーン。自信の著書『東の国から・心』では、欧米の読者に向けて柔道を紹介しています。
そして1893年9月からは高等師範学校(現 筑波大学)及び附属中学校(現 筑波大学附属中学校・高等学校)校長に就任。3期23年余の長期間に渡って、保守的な教育を改善し続けます。
治五郎が行った教育改革は次のようなものでした。
・課外活動を導入
・積極的な留学生の受け入れ
・修業年限を大学と同じにすることで師範学校の教育レベルを高めた
など
治五郎の生誕150周年に当たる2010年、治五郎の偉業を称えた「嘉納治五郎先生之像」が筑波大学のキャンパス内に設置されました。
灘中学校の設立
嘉納治五郎は、リベラルな校風と全国屈指の進学校として知られる灘中学・高等学校の創立者の一人です。灘中学の校是(創始者の考えを伝える短い言葉)は、柔道の精神である『精力善用』・『自他共栄』。
治五郎は長年、自分の私立学校を設立することを夢見ていました。千葉県に土地を購入し、並木道を整備して、学校設立を進めていましたが、多忙のため、計画通りにはいきませんでした。そんな中、故郷の神戸市御影村から、私立中学を設立したいという相談が舞い込み、治五郎は全面的なサポートを約束します。20代で柔道創始者となり、30代で高等師範学校校長・哲学館の講師を務め、40代で国際オリンピック委員となった治五郎は、教育界でも一目置かれる存在となっていました。
親戚筋となる菊正宗・白鶴酒造を経営する嘉納三家の出資協力を得て、1927年(昭和2年)に灘中学校(灘中学校・灘高等学校)を設立、東京高等師範学校時代の愛弟子眞田範衞を校長としました。
オリンピック招致を通して日本に活気を与える
1909年(明治42年)、嘉納治五郎はアジア人初のオリンピック委員会(IOC)に就任します。柔道の創始者として、東京高等師範学校の校長として、留学生教育教育の主導者として、「体育による国民の心身の鍛錬と道徳観念の育成」を推進していた治五郎。国内で教育のプロフェッショナルとして認知されていた治五郎のもとに、駐日フランス大使オーギュスト・ジェラールより国際オリンピック委員会(IOC)の就任依頼がありました。
オリンピックの理念である、
友情:国境や文化を超えて、選手たちが友情を育み、相互理解を深めることを目指す
尊厳:すべての人々の尊厳を尊重し、差別や偏見のない世界を実現する場である。
共感:最高水準のスポーツマンシップや卓越したパフォーマンスを追求することを目指す。
に共感した治五郎は快く引き受けるのでした。
そして、1931年(昭和6年)に東京市会で日本でのオリンピック開催要望が決議すると、嘉納は日本へのオリンピック招致に向けて、精力的に動き始めます。71歳と高齢だった治五郎ですが、1932年(昭和7年)にIOC総会(ロサンゼルス)、1933年(昭和8年)にはIOC総会(ウィーン)及びIOC会議(ウィーン)に出席して、組織・競技場・経費などについて報告し、IOC内での信用を高めていきます。そして、1934年(昭和9年)IOC総会(アテネ)において各国のIOC委員に日本のスポーツの写真集を配布しながら招致PRを行います。
そして、1936年(昭和11年)のIOC総会で、1940年(昭和15年)の東京オリンピック(日中戦争激化などにより実現せず)招致に成功します。
受け継がれる教育理念
柔道師範・教育者として、若者の健全な育成に情熱的に取り組み続けた嘉納治五郎。彼の柔道・スポーツ・学問の指導は、強くなる、賢くなることだけを目的にしたものではありませんでした。品格・礼儀・協調性などを身につけて、道徳的に振舞うことを提唱していました。日本の若者の体位の向上と精神面での成熟を願い、身分・性別を問わず指導を行いました。
それは他国の生徒でも同様でした。清国留学生に対しても、歴史・算術・理科・体操など、日本人生徒と同じような教科を教えます。運動会や遠足等の学校行事に参加したり、柔道を習ったりすることもできる、充実した学習環境を整えました。日清戦争後の混乱した情勢の中、時には私財を投じて、留学生の生活をサポートしました。
生徒の上達や理解のため、日本の体育教育の推進のために、自らも一生学び続けた治五郎は、世界に誇れる教育家と言えるでしょう。
◾️嘉納治五郎の生涯については伝記漫画もおすすめ!