2024年7月から5,000円札の顔となった津田梅子は、日本の女子教育の先駆者であり、初の女子留学生でもありました。女子英学塾(現・津田塾大学)の設立者としても知られています。6歳から11年間アメリカで生活し、初等・中等教育を修めた彼女は、女子の高等教育こそが、女性の地位を向上させる道であり、日本の発展にもつながると考えました。
この記事では津田梅子の功績・彼女の教育者としての信念について解説していきます。
津田梅子が新紙幣の肖像に選ばれた理由とは?
・女子教育の推進に尽力することで、日本の近代化をリードし、貢献した。・日本初の女子留学生として、津田塾大学の創立者として国民各層に広く知られている。
・偽造しづらい精密な写真が残っていた。
・紙幣にふさわしい肖像が残っていた。
参考資料: 紙幣の肖像の選定理由を教えてください :https://www.mof.go.jp/faq/currency/07ap.htm
津田梅子の功績
津田梅子が活躍した明治時代の女性の識字率はどのくらいだったのでしょうか?
『日本史大事典 』平凡社 , 1994の 「読み書き算盤」の項によると、幕末の識字率として「男子40%、女子10%」という調査結果があります。このことから明治初期の女性の識字率は、かなり低かったと言えるでしょう。また、この時代は「女子には教育など不要、学ぶとしても「良妻賢母」となるために育児・裁縫・礼儀作法などを学ぶべきだ」という風潮が強かったのです。そんな逆境の中、津田梅子は日本初の女性高等教育を行う私塾「女子英学塾」を創立しました。そして、男性と協力して社会活動に参画するための実践的な学問を、若い女性たちに教え続けました。
津田梅子の主な功績は以下の通りです。
・日本初の女子留学生として、アメリカで語学や英文学のほか、自然科学や心理学、芸術など学んだ。
・日本女性としては初めて、欧米の学術雑誌に論文(「蛙の卵の定位」)が掲載された。
・華族女学校・明治女学院・女子高等師範学校(現:お茶の水女子大学)で教鞭をとり、多くの女子に語学や教養を身につけさせた。
・万国婦人連合大会(GFWC International Convention)に日本婦人代表として参加して、3,000人の聴衆を前に日本の女子教育について演説を行った。
・女子英学塾(現:津田塾大学)を設立し、女子に進歩的でレベルの高い教育を行った。
次に津田梅子の略歴を見ていきましょう。
津田梅子の略歴
西暦 | 元号 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|---|
1864年 | 文久4年 | 0歳 | 江戸牛込南御徒町(現・東京都新宿区南町)で誕生。 父・津田仙と母・初子の次女。 仙は下総佐倉藩出自の旧幕臣・東京府士族であった。 |
1871年 | 明治4年 | 7歳 | 岩倉使節団に女子留学生を随行させる企画に、父・千が梅子を応募し、選ばれ、渡米留学する。 |
1872年 | 明治5年 | 8歳 | ワシントンD.C.近郊のジョージタウンに住むランマン夫妻に預けられる。夫妻は梅子を実子のように可愛がり、私立の初等教育・中等教育学校に通わせる。 ラテン語・フランス語・英文学・自然科学・心理学・芸術などを学び、学力と教養を身につける。 |
1882年 | 明治15年 | 17歳 | ・父・千の知人であるウィリアム・コグスウェル・ホイットニーの紹介で、フィラデルフィアの資産家・慈善家であるメアリ・モリス夫人と出会い、交流を深める。 ・1年間の留学期間延長の後、アーチャー・インスティチュートを卒業し、帰国する。 |
1883年 | 明治16年 | 18歳 | ・アナポリス海軍兵学校出身の海軍士官である世良田亮との縁談を断る。 ・海岸女学校(青山学院の源流)で短期の英語教師として勤務 ・伊藤博文の住み込み家庭教師として勤務 |
1885年 | 明治18年 | 20歳 | 華族女学校で英語教師として勤務 |
1888年 | 明治21年 | 23歳 | 来日中の留学時代の友人アリス・ベーコンの薦で再留学をする。 モリス夫人の協力によって、ブリンマー大学で「授業料の免除」・「寄宿舎の無償提供」で学ぶこととなる。 華族女学校校長は、梅子に同校教授としての規定通りの俸給を受けることを許可。 |
1892年 | 明治25年 | 27歳 | ・「蛙の発生」に関する研究成果を挙げる。 1894年(明治27年)に、この研究は指導教官であるトーマス・ハント・モーガン博士(1933年 ノーベル生理学・医学賞)と梅子の2名を共同執筆者とする論文「蛙の卵の定位」にまとめられ、イギリスの学術雑誌「 Quarterly Journal of Microscopic Science, vol. 35.」に掲載される。 ・ペスタロッチ主義教育の中心校として知られるニューヨーク州のオスウィーゴ師範学校で教育・教授法を学ぶ。 ・日本女性のアメリカ留学のための奨学金設立を発起 ・帰国し、再び華族女学校に勤務 |
1894年 | 明治27年 | 29歳 | 明治女学院講師を兼任する。 |
1898年 | 明治31年 | 33歳 | ・女子高等師範学校(現:お茶の水女子大学)教授を兼任する。 私費で渡米し、アメリカのコロラド州デンバーで開催された万国婦人連合大会(GFWC International Convention)に日本婦人代表として参加。日本の女子教育について演説を行ない、3千人の聴衆を感嘆させた。 ・英国各地やパリを訪問し、ナイチンゲールと面会 |
1899年 | 明治32年 | 34歳 | 帰国し、高等官5等に昇格 |
1900年 | 明治33年 | 35歳 | 華族女学校教授 兼 女子高等師範学校教授の官職を退職し、華族平民の別なき女子教育を目指す「女子英学塾」を開校する。 この開校には、モリス夫人を委員長とする「フィラデルフィア委員会」からの多額の寄付をはじめ、アリス・ベーコン・大山捨松(岩倉使節団・留学時代の仲間)・瓜生繁子(岩倉使節団・留学時代の仲間)・新渡戸稲造ら、多くの助力があった。 |
1902年 | 明治35年 | 37歳 | 華族女学校の同僚の石井筆子から、聖公会の静修女学校の校舎と生徒の譲渡を受ける。 |
1904年 | 明治37年 | 39歳 | 「女子英学塾」が「社団法人女子英学塾」となる。 |
1905年 | 明治38年 | 40歳 | ・女子英学塾に私立女子教育機関としては初めて、無試験検定による英語教員免許状の授与権が与えられる。 ・日本基督教女子青年会(日本YWCA)が創立され、梅子が会長となる。 |
1915年 | 大正4年 | 50歳 | 軽井沢の夏期学校で「日本の婦人運動(Women's Movement in Japan)」の講演を行う。 |
1917年 | 大正6年 | 52歳 | 体調を崩して入院 |
1919年 | 大正8年 | 54歳 | 女子英学塾の塾長を退任 |
1928年 | 昭和3年 | 63歳 | 勲五等に叙され、瑞宝章を授けられる。 |
1929年 | 昭和4年 | 64歳 | 脳溢血により死去 |
女子教育家として強い信念を持ち、女性に教育を与えることで、その地位向上を目指した梅子。男性に臆せず学び、自分の意見を発信し続けた精神的な強さは、6歳からのアメリカ留学で培われました。
わずか6歳でアメリカ留学へ
父・千は梅子の出生時は江戸幕府に出仕して外国奉行支配通弁(通訳官)として勤務していました。幕府の使節の随員として福沢諭吉らと共に渡米するなど、通訳官として第一線で活躍していましたが、1868年(明治元年)に退職し、1871年(明治4年)に開拓使嘱託になります。
そして1871年、開拓次官であり、女子教育の推進を図る黒田清隆が企画した「女子留学生のアメリカ派遣事業」に、娘・梅子を応募します。この企画は、不平等条約の改正・欧米の先進文化を学ぶために、政府の中枢メンバーを「岩倉使節団」として欧米に派遣する際に、官費で女子留学生も携行するというものでした。
梅子を含め、5名の女子留学生(すべて士族の女子)が留学を許可されました。最年長は14歳、最年少は6歳の梅子でした。この年齢で親と離れ、異国で生活するのは、かなり不安だったのではないでしょうか。
ただ、梅子が渡米後9カ月で書いたとされる”A little girl’s stories” と題する英文の絵日記(津田塾大学 津田梅子資料室 所蔵)には、次のような記録があります。
”父は、最初は姉の琴子を留学に応募させるつもりでしたが、姉は拒否しました。その後で父から留学の話を聞いた私は、アメリカに行きたい、と自分の意志で答えました”
幼い故に好奇心も強く、直感的に留学を希望したのかもしれません。
岩倉使節団について
明治時代の日本の外交使節団の一つ。1871年からアメリカ合衆国に派遣されました。岩倉具視を団長とし、大久保利通・木戸孝允・伊藤博文ら政府の要人・書記官等と約50人の留学生で構成された計107人の使節団でした。
目的はアメリカ合衆国やヨーロッパ諸国を訪問し、不平等条約の改正を行い、西洋の政治・経済・文化などを視察することでした。彼らの持ち帰った知識は、日本の近代化政策の基盤となったのです。
ランマン夫妻からの深い愛情と豊かな教育
梅子のホームステイ先は、ワシントンD.C.のジョージタウンに住む日本弁務使館の書記官チャールズ・ランマン家でした。そして、渡米から約2カ月に、女子留学生5名は、ワシントン市内にある寄宿舎で、全員で英語の学習を始めます。しかし、数ヶ月で2名が体調不良となり帰国、残った梅子・山川捨松・永井繁子は、それぞれ違う家庭に預けられることとなります。梅子・捨松・繁子はその後も交流し、成人後もお互いを支え合う中になりました。
再び梅子はランマン夫妻の元に戻り、10年間の留学生活を送ります。
裕福な家庭であったランマン家。夫のチャールズ・ランマンは著名な画家・著述家・旅行家でした。妻のアデリーン・ランマンは日本弁務使館書記官(Secretary of the Japanese Legation)として勤務していました。ランマン夫妻は梅子を実子のように、愛情を持って育てます。
向上心があり、非常に聡明であった梅子。彼らは語学以外にも十分な教育を与えました。コレジエト・インスティチュート(私立の初等教育機関)とアーチャー・インスティチュート(私立の中等教育機関)に通わせ、英語・ラテン語・フランス語などの語学や英文学、自然科学・心理学・芸術を習得させました。学校の休暇中は各地に旅行に連れて行き、文化的体験をさせたのです。日本では考えられない高い学力と教養を身につけた梅子は、ランマン夫妻の自慢の娘となっていました。
アメリカの父母として、ランマン夫妻を深く敬慕した梅子は、帰国後の1882年(明治15年)から、ランマン夫人が1914年(大正3年)で亡くなる直前まで、数百通の手紙をランマン夫人に送り続けました。
キリスト教の洗礼を受ける
ランマン夫妻と暮らし始めて1年を過ぎた頃、梅子は自ら申し出てキリスト教の洗礼を受けます。この申し出の背景には、周囲の人々の個人を尊重する態度や、平等を重んじる雰囲気など、日本とはまったく違う、アメリカの自由で開放的な文化・生活習慣があったと言えるでしょう。
洗礼を行った牧師は
感性と表現力は幾つか年上のアメリカの子より優れている。
引用:古木宜志子『津田梅子』清水書院,1992年
と感じて、幼児洗礼ではなく、大人と同じ洗礼を授けました。
学びの基礎となる英語がネイティブレベルに
ランマン夫妻を驚かせたのは、梅子の学習能力の高さでした。渡米9カ月で英語で彼女が書き記した絵日記「A little girl’s stories(小さな女の子の物語)」は、日本からアメリカまでの大旅行の記録でした。7歳の子が短期間に、ここまでの英語力を習得することは予想だにしなかったのでしょう。
また彼女は初等・中等教育を通して大変優秀な成績を修めました。すべての学習の基礎となる英語力はネイティブレベルに達していて、特に理系の学科に関してはずば抜けて優れていたようです。
参考資料:https://www.city.kita.tokyo.jp/gakkoshien/kosodate/shogakko/gakkojoho/kuritsu-02/horifuna/documents/umeranmanke6.pdf
津田梅子の生き方(5)〜ランマン家での生活〜
良き理解者となるモリス夫人との出会い
1882年(明治15年)、梅子はアーチャー・インスティチュート在学中に、父・千の知人のウィリアム・コグスウェル・ホイットニーの紹介で、生涯を通じて助けられることとなるメアリ・モリス夫人と出会います。彼女は、フィラデルフィアの資産家・慈善家であり、敬虔なキリスト教徒でした。誠実で勤勉な梅子を、高く評価したモリス夫人は、梅子が帰国した後も文通を続けて信仰を深めました。
梅子の良き理解者となったモリス夫人は、以下のような支援をして日本の女性の地位向上をサポートします。
・1889年(明治22年)から1892年(明治25年)の梅子・2回目のアメリカ留学の待遇面でのサポート
・1892年(明治25年)の「日本婦人米国奨学金(日本の女性をアメリカ留学させるための支援)」の創設のための募金
・1900年(明治33年)に梅子が日本で創設した女子英学塾(現:津田塾大学)を「フィラデルフィア委員会」の設立によって経済的に支援
梅子の功績の多くがモリス夫人のサポートによって支えられていたことがわかります。
日本の女子教育の遅れに驚愕
1882年(明治15年)、17歳で帰国した梅子は官職が用意されていないことに落胆します。それは共に帰国した捨松も同様でした。というのも、梅子たち女子留学生派遣を管轄していた北海道開拓使は、帰国前に解散されていて、本来用意されているはずだった、役職・仕事が何もなかったからです。官費で10年以上も学ばせてくれた恩を返すため、国のために心血を注ごうと意気込んでいた彼女たちは、途方に暮れてしまいます。男子留学生たちは数年の修学でかなりの地位につき、活躍していたのですから尚更でしょう。
梅子は女性であることを理由に、才能・学力があっても活かすことができない日本社会に驚き、落胆しました。また、周囲の女性の自信や向上心のなさにも辟易していたようです。帰国後にランマン夫人宛に書いた手紙に次のようなことを記し、日本人女性の立場の低さを表しています。
東洋の女性は、地位の高い者はおもちゃ、地位の低い者は召使いにすぎない
引用:NPO法人 国際留学生協会 https://www.ifsa.jp/index.php?kiji-sekai-tuda.htm
日本女性の境遇を改善し、アメリカ人女性のように個として尊重されるには、女性も学び、知識・教養をつけなくてはならないと強く実感したのでしょう。「男性と協力して、国を支えていくことのできる、能力がある女性を増やすこと」が日本の女性蔑視を改善すると梅子は考えます。
華族女学校教授での3年
帰国後、伊藤博文と再会した梅子は、1883年(明治16年)12月から、約半年間伊藤家の住み込み家庭教師兼通訳として働きます。彼女の滞在中、伊藤はさまざまなことについて相談し、討論し合います。政府高官であった伊藤が女性である梅子を、対等に扱い敬意を持って接したことは当時の時代背景からは考えられないことでした。
そして、1885年(明治18年)に伊藤の推薦で、華族女学校(学習院女学部から独立して設立された)で英語教師として勤務することとなります。
梅子の評価はここでも高く、1886年(明治19年)には教授に昇進します。華族女学校で、高等官だったのは、学監・下田歌子と梅子だけでした。
ただ、上流階級的気風が強かった華族女学校の雰囲気に梅子は馴染めなかったようです。
俸給を受けながらの再留学
1888年(明治21年)に留学時代の友人アリス・ベーコンが来日し、梅子に再留学を勧めます。早速梅子はフィラデルフィアのモリス夫人に、手紙で留学について相談しました。するとモリス夫人は、ブリンマー大学の学長に梅子の入学を要請します。夫人と懇意であった学長は快諾し、授業料免除と寄宿舎の無償提供を約束してくれました。さらに華族女学校の校長も、規定通りの俸給を受けながらの2年間の留学を認めます。
そして、1889年(明治22年)にアメリカに再留学、ブリンマー大学で生物学を専攻します。
梅子の論文「蛙の卵の定位」が高く評価される
1891年(明治24年)から1892年(明治25年)に、梅子は「蛙の発生」の研究で大きな成果を挙げます。この研究成果をまとめた論文「蛙の卵の定位」は、1894年(明治27年)にイギリスの学術雑誌 Quarterly Journal of Microscopic Science, vol. 35.に掲載されることとなります。これは日本人女性初の快挙でした。またこの論文は指導教官であるトーマス・ハント・モーガン博士(1933年 ノーベル生理学・医学賞)との共同執筆であることから、第一線の遺伝学者も一目置く、学生であったと言えるでしょう。
教育法を師範学校で学ぶ
梅子は帰国後の女性教育のために、ニューヨーク州のオスウィーゴ師範学校で半年間学びます。ペスタロッチ主義教育の中心校であったこの学校で、教育・教授法を習得します。
また留学3年目に入った時、梅子は日本女性のアメリカ留学をサポートする「日本婦人米国奨学金」設立を発起します。精力的に講演や募金活動などを進めていきました。
帰国後、再び教職へ
帰国前、ブリンマー大学側から生物学研究の継続を提案され引き止められていた梅子。
しかし、それを辞退し、1892年に帰国し、華族女学校に復職します。生徒が少しでも学びやすいよう、自宅に寄宿させるなどの支援を積極的に行います。
花嫁修行の一環としての学問ではなく、実践的な英語を指導したことで、生徒・同僚からの信頼と尊敬を受けます。また女性にも手加減しない厳しい指導法にも定評がありました。1894年(明治27年)に明治女学院講師、1898年(明治31年)には女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)の教授を兼任することとなります。
女子英学塾の設立
1900年(明治33年)、36歳の梅子は華族女学校・女子高等師範学校教授の官職を辞めて、麹町一番町の借家に女子英学塾(現・津田塾大学)を開校します。この時の彼女は、同年代の女性の最高の職業的地位に就いていたのですから、決意の強さはかなりのものです。学校創立には、梅子の教育信念に共鳴した日米の協力者たちの援助がありました。特にモリス夫人やブリンマー大学学長らによる資金援助、そしてアリス・ベーコン・新渡戸稲造・大山捨松(旧姓・山川)らによる協力がなければ、女子英学塾の開校はできなかったでしょう。
開校時の生徒数はわずか10人。開校式の式辞で述べられた、塾の教育理念は以下のようなものでした。
・教育には優れた教員と意欲ある学生の存在が必要
・学生の個性を尊重するための少人数教育
・高度な英語教育を施し、女性の英語教員を養成
・高い専門性を習得し、広い教養を身につけること
参考:「Tsuda Today」No.91,2014 https://dl.ndl.go.jp/view/prepareDownload?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F11516363&contentNo=1
進歩的な女子教育を無給で
英語・倫理学・漢文などさまざまな学科を女子英学塾では学ぶことができました。進歩的でハイレベルな授業が高評となり、1908年(明治41年)には、生徒数は150名に達します。しかし、学生1名につき、年額24円の授業収入だけでは塾経営は難しかったようです。梅子・アリス・ベーコン・そしてアリス帰国後に来日したアナ・ハーツホンは無報酬で勤務していました。そんな梅子の窮地を救ったのは、塾顧問を担っていた捨松を通じて、ヴァッサー大学から送られた寄付金等のアメリカの支援者からの援助でした。
脱落者も出るほどの厳しい指導
学力の高低で差別することはなかった梅子ですが、怠ける者、社会規範を犯す者、傲慢な態度の者には非常に厳しい指導をしたようです。また英文法・発音にも妥協を許しませんでした。3年間の学習期間中に英語教員免許状を取得させるために、時には机を叩き「No, no! Once more! Once more!」と叱咤することもあったようです。
高度な学習内容、厳格な校風に耐えられない生徒は次々に辞めていきました。
当時の教え子たちからは以下のような声が挙がっていました。
先生から直接指導を受けたのは一年半に過ぎなかったが、その授業の徹底、少しのごまかしも許さぬ厳しさは身に沁みて今に至るも忘れることは出来ない。
引用:古川安「津田梅子:科学への道、大学の夢」東京大学出版会,2022年
先生は日本婦人に稀にみる熱と力の人で、その熱と力を集中しての訓練は、峻厳をきわめ、怠け者や力不足の者は学校に居たたまれぬほどであった。
その代わりに学生の態度が真剣で熱心であると、人一倍喜ばれた。はなはだしい愚問でないかぎり、生徒がいくらくどく質問しても、決していやな顔をされず、得心のいくまで教えられた。時には生徒が先生を言い負かすようなことがあっても、怒られぬのみかかえってその意気を喜ばれた。
引用:寺沢龍『明治の女子留学生:最初に海を渡った五人の少女』平凡社,2009年
女子英学塾の発展により女子教育が推進
1904年(明治37年)に塾は「社団法人女子英学塾」となり、1905年(明治38年)には無試験検定による英語教員免許状の授与権を与えられます。これは私立女子教育機関では初めてのことで、女子英学塾の教育水準の高さと女子教育の重要性を国が認めたと言えるでしょう。また同時に梅子の指導力の高さ・人望の厚さも広く知られていきます。
1905年には日本基督教女子青年会(日本YWCA)が創立され、梅子は会長となります。た。40歳で女子教育のパイオニアとして、日本中に認知された彼女は、その後も教壇に立ち続けます。1917年(大正6年)に体調を崩すまで、生徒の個性を活かした指導を行い、後進の育成をすることで、女性の地位を高めていきました。
その当時の梅子の日記には以下のような気持ちが記されています。
自分自身のことをいつまでも思い煩うまい。事物の永遠の成立ちのなかで、わたしやわたしの仕事などごく些少なものに過ぎないことを学ばねばならない……新しい苗木が芽生えるためには、ひと粒の種子が砕け散らねばならないのだ。わたしと塾についてもそう言えるのではなかろうか。その思いが念頭を去らない。
引用:古川安『津田梅子:科学への道、大学の夢』(DMMブックス版)東京大学出版
津田梅子,1917年(大正6年)6月13日付の日記より(原文は英語)
その後、入退院を繰り返した梅子は1919年(大正8年)、54歳で女子英学塾の塾長を辞すことを決めます。
そして、親戚一同の計らいで建てられた北品川御殿山(現:東京都品川区御殿山の辺り)の住居に転居し、以後10年間を静かに過ごします。
1928年(昭和3年)には、昭和天皇即位の大典に際して勲五等に叙され、瑞宝章を授けられますが、翌年の1929年(昭和4年)8月16日に脳溢血で亡くなりました。享年64歳でした。
女性の地位向上で日本の発展に貢献
6歳から17歳まで、国費留学生として学べたことに恩義に感じていた梅子は次のような言葉を残しています。
”撒かれた種子は豊かに実をつけなければならないことを心得て下さい。受けたものはこれに付け加えて他の人たちに伝えていくべきことを。”
参考: 古木宜志子『津田梅子』1906年 卒業式辞,清水書院,2016
梅子は英語を中心とした学問を通して、女性たちに広い視野と、自分で生きていく力を修得させました。彼女が成し遂げた、男性の召使ではない、一人の人間として社会に貢献できる女性の育成は、女性の地位向上のみならず、国の発展にも大いに貢献しました。
幼き日に受けた良質な教育、人として尊重される環境を、次世代の女性に与えることで、女性の尊厳を守ろうとしたのです。
▼お子さま向けには伝記漫画もおすすめです。