2024年7月から発行開始の新1,000円札の顔である北里柴三郎。血清療法の開発・ペスト菌の発見で知られる彼は、日本近代医学の父であり、世界的細菌学者でもあります。医者・細菌学者であると同時に、門下生にとっては情熱あふれる教育者でもありました。
医学の礎を築いた北里柴三郎の功績・思想を、教育者としての一面から振り返ってみましょう。
・ペスト菌の発見・免疫血清療法の確立など、日本及び世界の医学界に大きな影響を与えた。
・偽造防止の観点から、精密な写真が残っている偉人である必要があった。
・紙幣にふさわしい肖像だった。
・国民各層に周知されていて、その業績が広く認知されている。
参考資料:「紙幣の肖像の選定理由を教えてください : 財務省 」https://www.mof.go.jp/faq/currency/07ap.htm
北里柴三郎とはどんな人? その功績
北里柴三郎が細菌学分野で功績を残したことを、何となく知っている方は多いでしょう。ただ具体的にどのような功績を残したかを挙げられる方は少ないかもしれません。
生涯を医学に捧げ、多くの患者の命を救ってきた彼の主な功績は以下の6つです。
・ジフテリアと破傷風菌の抗血清開発
・血清療法を確立
・日本初の私立伝染病研究所を設立
・日本初の結核専門病院を設立
・ペスト菌の発見
日本の医療界だけではなく、世界の医療界にも貢献したことがわかります。
以下は北里柴三郎の略歴となります。幼少期から学問を続け、医学を探求し続けた、志の高い「真の医師」であったことは間違いないでしょう。
西暦 | 元号 | 年齢 | 出来事・功績 |
---|---|---|---|
1853年 | 嘉永6年 | 0歳 | 熊本県阿蘇郡小国町に父・惟信、母・貞の長男として誕生する。 |
1871年 | 明治4年 | 18歳 | 個古城医学所兼病院(現・熊本大学医学部)でオランダ人軍医マンスフェルトに師事する。 |
1874年 | 明治7年 | 21歳 | 東京医学校(現・東京大学医学部に )に入学 |
1883年 | 明治16年 | 30歳 | 東京大学医学部を卒業、内務省衛生局に入省する。 松尾トラと結婚する。 |
1885年 | 明治18年 | 32歳 | ドイツ留学 |
1886年 | 明治19年 | 32歳 | ベルリン大学のローベルト・コッホに師事する。 |
1889年 | 明治22年 | 36歳 | 破傷風菌の純粋培養を成功させる。 |
1890年 | 明治23年 | 37歳 | 破傷風菌抗毒素を発見し、血清療法を確立させる。 |
1892年 | 明治25年 | 39歳 | 内務省に復職する。 芝区芝公園に私立伝染病研究所を創立する。 |
1893年 | 明治26年 | 40歳 | 日本初の結核専門病院である土筆ヶ丘養生園を開設する。 |
1894年 | 明治27年 | 41歳 | 私立伝染病研究所を芝区愛宕町へ移転する。 ペストの原因調査で香港に赴き、ペスト菌を発見。 |
1899年 | 明治32年 | 46歳 | 伝染病研究所が国立となり、管轄が内務省となる。 |
1906年 | 明治39年 | 53歳 | 第2回 日本連合医学会(現・日本医学会)会頭を務める。 国立伝染病研究所を芝区白金台に移転。 |
1913年 | 大正2年 | 60歳 | 日本結核予防協会を設立する。 |
1914年 | 大正3年 | 61歳 | 伝染病研究所が内務省から文部省に移管。所長に就任する。 土筆ヶ岡養生園の一角に私立北里研究所を創立する。 |
1915年 | 大正4年 | 62歳 | 恩賜財団済生会芝病院(現・東京都済生会中央病院)初代院長に就任する。 北里研究所が竣工。 |
1917年 | 大正6年 | 64歳 | 慶応義塾大学医学部医学科を創立、初代医学科長に就任する。 |
1923年 | 大正12年 | 70歳 | 日本医師会を創設、初代会長に就任する。 |
1926年 | 大正15年 | 73歳 | 妻・トラ逝去 |
1931年 | 昭和6年 | 78歳 | 脳溢血により逝去 |
教育熱心な両親による早期教育
北里柴三郎は1853年(嘉永6年)に熊本県阿蘇郡の庄屋の家に生まれました。教育熱心な母・貞の期待を一身に受け、幼少期から学問を強いられます。父・惟信も同じく学問に重きを置く教育方針だったため、わずか8歳で漢学者の祖父に預けられ、漢学・儒学・医学等を学ばされます。元来、武芸を好んでいた柴三郎。どちらかというと学問は二の次の少年でした。
実は軍人になりたいと考えていましたが、両親は学問の道を強く勧めました。
恩師マンスフェルトとの出会い
1871年(明治4年)より、父から勧められ、熊本の古城医学所で学ぶことになった柴三郎でしたが、ひそかに軍人になる夢を温めていました。しかし、古城医学所のオランダ人教師・マンスフェルトとの出会いで、医学への関心が大きく高まりました。
マンスフェルトはオランダ語が上手な柴三郎を気に入り、医学の面白さ、奥深さを伝えたのです。次第に医学への熱意が大きくなっていきます。そして、身体組織を顕微鏡で観察した実習をきっかけに、医学の道を選ぶ意思が固められました。
東大医学部在学中に学生達に伝えた予防医学の重要性
柴三郎は、1874年(明治7年)21歳で東京大学医学部に入学します。
そして1878年に開催された学生集会で「人々に保健衛生の概念・方法を伝え、未然に病気を防ぐことの重要性」を同胞たちに演説しています。この集会の演説原稿『医道論』で次のように説いています。
学問を研究して之を実地に応用し以て国民の衛生状態を向上せしめる
「人民に摂生保健の方法を教え体の大切さを知らせ、病を未然に防ぐこと」
現代では常識である、国民の健康保全の核となる予防医学を初めて提唱したのです。
細菌学の権威コッホに師事
東京医学校を1883年に卒業後、内務省衛生局に入省。1885年にはドイツへの官費留学を命じられます。入省わずか2年での官費留学から、政府の柴三郎への期待が感じられます。
留学先はベルリン大学。そこで師事したのは「病原微生物学の父」、ローベルト・コッホでした。コッホは病原細菌学のパイオニア。細菌の染色/ 培養方法などを自ら考案し発展させ、衛生学・防疫学の常識を一新させました。
留学してしばらくすると、柴三郎とコッホは固い師弟関係で結ばれます。学習意欲が高く、優れた研究手腕を持つ柴三郎を、コッホは信頼するようになります。また柴三郎もコッホを尊敬し、生涯の師と仰ぐようになりました。
そして、1889年に世界初の破傷風菌の純粋培養に成功。翌年には破傷風菌の出す毒素への免疫抗体を発見し、それを用いた免疫血清療法を確立しました。
1892年に帰国し、内務省に復職した後もコッホへの敬愛を忘れなかった柴三郎。1908年委はコッホを日本に招待し、手厚くもてなしました。コッホの死後は、自身が設立した伝染病研究所内に祠を建立して敬意を示しました。
日本で最初の結核専門病院の設立
帰国後の柴三郎を待っていたのは、研究機関と大学からの冷遇でした。というのも、彼は医学の研究に関しては決して妥協を許さないため、上司と衝突することも多かったのです。四面楚歌となっていた所を救ったのが福沢諭吉でした。諭吉の資金援助により、明治25年に芝区芝公園に私立伝染病研究所を設立することができました。
そして、明治26年には、諭吉から資金の調達のサポートと土地の提供を受け、日本初の結核専門病院を開設します。
研究所で伝染病と細菌学の研究に打ち込み、土筆ケ岡養生園で結核予防の研究と患者の治療に専念する「実学(理論に偏らず実用性・技術を重んじる学問)」を体現した日々を過ごします。
ペスト菌を発見、パンデミックを収束させる
1894年(明治27年)に香港で流行していたペストの調査研究のために現地に赴任します。国立伝染病研究所(元・私立国立研究所)の所長として、政府の命を受けていた柴三郎は精力的に調査・研究・実験を行い、ついにペスト菌を発見します。さらにペスト菌が日光・熱・薬品によって殺菌できることを突き止めます。そしてクマネズミが媒介者であることも発見。これを駆除することで感染拡大を防げることが周知されました。ペストの原因と消毒方法が発見されたことで、香港のパンデミックは収束に向かうのでした。
慶応義塾大学医学部医学科の初代学長に就任
柴三郎は1917年(大正6年)に慶応義塾大学医学部医学科を創立し、初代医学科長に就任。この医学部設立の背景には、1901年に亡くなった慶應義塾創設者である福沢諭吉への恩義がありました。伝染病研究所と土筆ケ岡養生園の設立を、私財を投じてまで、援助してくれた諭吉。彼の医学教育への遺志を受け継いだ柴三郎は、大学から報酬を受け取らず後進の指導に心血を注ぎました。
慶應大学医学部医学科には予防医学教室が設けられ、柴三郎の信念でもある予防医学の重要性を説きました。かつて自分が東京大学医学部生だったころに、同志に訴えた””学問を研究して之を実地に応用し以て国民の衛生状態を向上せしめる”を、門下生たちと共に実践していったのです。
参考資料:https://www.city.kita.tokyo.jp/gakkoshien/kosodate/shogakko/gakkojoho/kuritsu-02/horifuna/documents/kitasatokeio.pdf
https://www.kitasato.ac.jp/kinen-shitsu/data/download/syonaihou_54.pdf
医療の本質を伝え続けた細菌学のパイオニア
慶應義塾大学医学部医学科の初代医学部長に就任後も精力的に細菌学・免疫学の指導・研究を行います。1931年に亡くなるまで、日本医師会をはじめとする数多くの医学団体の設立を行い、公衆衛生の改善・予防医学の周知・医学教育の発展に大いに貢献しました。
また柴三郎は私立伝染病研究所時代から亡くなるまで40年弱、数多くの門下生と研究生活を行ってきました。優秀な門下生が多く、中でも志賀潔(赤痢菌の発見)・野口英世(黄熱病・梅毒の研究)は知名度が高いでしょう。
柴三郎の医療への献身的・真摯な向き合い方は、門下生の心を強く打ちました。地位・名声に踊らされず、細菌学者・医師として第一線に立ち続ける姿は、「医師としてあるべき姿」を体現したものだったからです。
柴三郎が考える「医療の目的」・「医療に携わる者が目指すべきもの」は、東京大学医学部医学科生時代に既に確立されていました。
先にも紹介した『医道論』の中で、以下のように述べ、医学の学習や研究は、人の命を救うために行うべきであり、金や名誉のために行ってはならないと説いています。
医の真の目的は大衆に健康を保たせ国を豊かに発展させることにある。ところが医者という地位について勉強せず、自分の生計を目あてに病気を治すことで満足する者がいる。今から医学に入る者は大いに奮発勉励し、この悪弊を捨て医道の真意を理解しなければいけない
北里柴三郎『医道論』1878年
人を信じ、育てる天才でもあった
柴三郎は、医療の進歩のためであれば、自分より上の立場の者にも迎合せず、正しい判断を貫いてきました。そのため疎まれ、妨害されることも多かったようですが、それ以上に友人・支持者・弟子たちからの支援がありました。彼の医療の道を拓いてきたのは、誠実な人柄と敬愛精神と言えるでしょう。
『北里柴三郎伝』において、以下のような記述がありました。
先生の書斎には「任人勿疑 疑勿任人」(人を任じて疑うなかれ 疑いて人を任ずるなかれ)が座右銘として掲げてあり、生誕を通じての信条でした。先生は一たび信じれば全てを任せて疑わないので、門弟から用務員に至るまで先生の命とあれば粉骨砕身、事に当りました。また、多数の門下生の性能を識別してその長所を発揮させることに努め、部下の失策や怠慢に対し直面して叱責はしても、外部に対しては部下のしたことに対して必ず自らその責めを負い、決して回逃しない責任感の強い先生でした。
引用資料:https://www.kitasato.ac.jp/kinen-shitsu/data/download/syonaihou_54.pdf
「医の道」を門下生に伝えた生き様
強い探求心と強靭な精神力で、破傷風菌純培養法・破傷風菌抗毒素・ペスト菌の発見を成し遂げた北里育三郎。座学に終始せず、自ら調査・研究を行い研究成果を上げる「実学」の姿勢は、多くの後進者たちに医療の真髄と予防医学の重要性を伝えました。
「医の真の目的は大衆に健康を保たせ国を豊かに発展させること」と考え、地位や名声よりも、医療の進歩・後進の指導に重きを置き、晩年は慶應義塾大学医学部で無給の研究・指導にあたっていました。当時死亡率の高かった結核の予防知識の周知、公衆衛生指導なども積極的に行い、日本の医学教育の発展に尽力した一生だったと言えるでしょう。
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