近代日本を代表する政治家、財政家である高橋是清(1854年~1936年)。生涯で大蔵大臣を7回も勤めた財政・金融のプロフェッショナルです。その親しみやすい風貌と明るい性格から、だるま宰相の愛称でも知られています。
以下の功績をご存じの方は多いのではないでしょうか。
・日露戦争(明治37年,1904年)の際、日本の資金不足を戦時外債の公募で解決
・昭和恐慌時(昭和2年,1927年)に赤字国債(日本初)を発行し経済混乱を阻止
是清は幅広い視野と柔軟な思考を活かした経済政策で、日本経済を成長させてきました。国内外問わず幅広い人脈を持ち、対話と交渉で明治・大正・昭和の経済界を牽引してきた彼は、教育者としても素晴らしい手腕を発揮しています。
何と弱冠16歳で英語教授、21歳で大阪英語学校の学校長に就任、24歳で現在の開成学園の前身である共立学校の初代校長となっています。
この記事では、高橋是清の教育者としての取組みや、開成学園創始者として掲げた理念などについてまとめました。
高橋是清の生い立ちと少年時代
財政界で活躍し、教育界でも名を馳せる・・・是清の華々しい経歴を見ると、裕福な家庭で何不自由なく育った印象がありますよね。しかし彼の生い立ちは複雑でした。
幕府御用絵師・川村庄右衛門と川村家の侍女・北原きんの子として1804年に誕生しますが、生まれてすぐに仙台藩足軽・高橋覚治是忠の養子に出されます。育てたのは養祖母である喜代子でした。彼女が実の孫のように愛情を持って育てた結果、彼はコミュニケーション能力の高い、楽天的で前向きな性格となります。
10歳(1864年)の時に、外国の知識、外国語の習得に重要性を見出した仙台藩の勧めで、横浜のヘボン塾に公費で通うことになります。ヘボン塾はアメリカ人宣教師・医師であるジェームス・カーティス・ヘボンとその妻クララが開いた医学と英語の学校。そこで是清は小間使いとして奉公しながら、英語を学びました。
13歳(1867年)でアメリカ留学を試みるも、騙されて奴隷契約を結ばされてしまいます。留学生ではなく、労働力として渡米しサンフランシスコやオークランドで、住み込みの奴隷として家事や雑用に従事することに。
しかし、是清は苦しい労働の中でも、学ぶことを諦めず、実生活の中で英語の話す、聞く、書く力を養います。そしてついには、身につけた語学力を使って、領事立会いのもと、自分を騙した人物と交渉し、1868年に帰国を果たすのです。
高橋是清の略歴「奴隷経験のある総理大臣」
年 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
1854年 | 0歳 | 幕府御用絵師・川村庄右衛門と川村家の侍女・北原きんの子として、芝中門前町(江戸)で誕生。 誕生直後に仙台藩足軽・仙台藩足軽・高橋覚治是忠の養子に出される。 |
1864年 | 10歳 | 横浜のヘボン塾で英語を学ぶ。 |
1867年 | 13歳 | アメリカ留学を試みるも、詐欺にあい、奴隷として売り飛ばされてしまう。 サンフランシスコ、オークランドなどで住み込み奴隷として働くことに。 |
1868年 | 14歳 | 奴隷契約中に身につけた語学力を使って、領事立会いのもと、だました相手と交渉し、無事帰国の途につく。 |
1869年 | 15歳 | 大学南校で英語教師に就く。 |
1870年 | 16歳 | 唐津藩英学校(耐恒寮)の英語教師となる。 是清は女子の入学を認め、女性教師の育成を目指す。 |
1873年 | 19歳 | 文部省に入省。 |
1875年 | 21歳 | 大阪英語学校長に就任。 |
1876年 | 22歳 | 東京英語学校の教師に就任。 |
1877年 | 23歳 | 共立学校(現・開成学園)、大学予備門(東京大学の予備機関)で英語教師となる。 内務省衛生局、文部省の外国書翻訳の下請け業務を担う。 |
1881年 | 27歳 | 農商務省に転籍し、商法登録、発明専売規則作成を進める。 |
1885年 | 31歳 | 欧米出張でサンフランシスコ、シカゴ、ニューヨーク、ワシントン、ロンドン、パリ、ベルリンなど4か国の主要都市を歴訪する。 |
1889年 | 35歳 | 東京農林学校(現・東京大学農学部)の学校長を兼務する。 |
1890年 | 36歳 | ペルー、カラワクラ銀山経営が失敗。(鉱山が廃鉱だった。) 前年度設立した日秘鉱業株式会社の解散の処理に追われる。 |
1892年 | 38歳 | 日本銀行建築所事務主任となる。 |
1893年 | 39歳 | 日本銀行西部支店長に就任。 |
1895年 | 41歳 | 横浜正金銀行本店支配人となる。 それまで外国銀行に任せていた外国為替業務を正金銀行で取り扱うようにする。 |
1899年 | 45歳 | 横浜正金銀行を退職。 日本銀行副総裁に就任。 |
1904年 | 50歳 | 日露戦争に備えて、外積を発行し戦費を調達する。 |
1911年 | 57歳 | 日本銀行総裁に就任。 |
1913年 | 59歳 | 第一次山本権兵衛内閣の大蔵大臣に就任。 |
1918年 | 64歳 | 原敬内閣の大蔵大臣に就任。 |
1921年 | 67歳 | 原総理が暗殺され、第二十代内閣総理大臣に就任。 大蔵大臣も兼務する。 |
1927年 | 73歳 | 田中義一内閣の大蔵大臣に就任。 |
1931年 | 77歳 | 犬養毅内閣の大蔵大臣に就任。 斎藤実内閣の大蔵大臣に就任。 |
1934年 | 80歳 | 岡田啓介内閣で大蔵大臣に就任。 |
1936年 | 82歳 | 二・二六事件で暗殺される。 |
奴隷、教師、銀行員、総理大臣・・・ここまでさまざまな立場、職業を経験した偉人は珍しいでしょう。高橋是清は、人生は正に波乱万丈そのものでした。
15歳で大学南校(東京大学の前身)の英語教師に
前章で紹介した通り、13歳の時に是清はとあるアメリカ人に唆され、奴隷売買契約書に署名してしまいます。そして北米大陸で奴隷として、家事や雑用に従事させられます。厳しい労働の中、アメリカ人、アイルランド人、中国人らとコミュニケーションを取るうちに英語力が高められていきます。
「日本語が一切使えない環境」と、是清本人の自学力によって、聞く力、話す力、読む力、書く力が総合的に高められていったのです。そして持ち前の明るさとバイタリティ、高い英語力を活かして、雇用主や領主と渡り合い、14歳で帰国します。
そして 15歳で薩摩藩の軍務官判事、森有礼の書生となり、彼の紹介で大学南校の英語教師となります。大学南校は東京大学法学部、理学部、文学部の前身。ここで教鞭をとりながら、政府お抱えの英語教師であるフルベッキ(G. H. F. Verbeck)から、「世界の要人とも相対することができる英語」を習います。
というのも、是清の英語は奴隷生活で身につけたものであるがゆえに、俗っぽさが感じられてしまうものだったからです。文法や言い回しを基本の正しいものに矯正することで、是清は英語教師として大きく飛躍します。
柔軟な思考で学びの門戸を広げた
明治維新による近代化が進んだ1870年、16歳の是清は唐津藩英学校の英語教師として招かれます。流暢に英語を話す幕府お抱えの英語教師という肩書は、年長者の嫉妬心をかき立てました。
弱冠16歳の英語教師を、良く思わない守旧派も多かったのです。彼らの嫌がらせが高じた火災により唐津藩英学校は焼失しました。
しかし、逆境に強い是清は、機転を利かせて、江戸に転居する藩主の邸宅(唐津城御殿)を学校として再活用することにします。耐恒寮(たいこうりょう)と名づけられた学校では、是清の主導のもと、日本語NGの「英語で英語を学ぶ」革新的な教育手法がとられました。耐恒寮からは建築家・辰野金吾、早大学長・天野為之、科学者・渡辺栄次郎、鉱山技術者・麻生政包など、明治の日本の発展に貢献した人物を多く輩出しました。
また是清は女子の入学も許可します。女子教育の礎を築くため、女教師の育成を試みたのです。是清は、自著『随想録』で女性について以下のように述べています。
昔は、女が男よりも一段下のものであるかのごとく見られてゐたが、それは明らかに間違ひで、男に男の力があれば、女にも女の力がある。男と女とは、一つのものの半分ずつなのであるから、お互ひに、それぞれの力を認め合ひ、尊敬し合わなければならない。
引用:『随想録』中央公論新社,2011,P14:
男尊女卑、「女に学問はいらない」とされてきた明治時代。是清はかなり進歩的で、頭の柔らかい先生だったのでしょう。
共立学校(現・開成学園)の初代校長に就任
共立学校(現・開成学園=開成中学校・高等学校)は1871年、欧米の教育事情に精通した知識人であった金沢藩士・佐野鼎によって設立されました。「共に立て、共に育てていく」共立学校の教育理念は、現在の開成学園にも受け継がれています。
是清は1877年、23歳の時に共立学校の英語教師に就任。翌年1878年には初代校長となります。当時の教師と生徒に向けて、学問における記憶力と思考力の役割について、以下のように諭します。
学問するには記憶力と思考力とは両方とも欠くことのできない要素で、記憶力というものは思考力を養うための土台です。例えば、事物の是非得失をよく考えないで、ひたすら前例にのっとることに努め、その結果がどうであるかは本人が関知しないなどというのは、つまり、記憶力と同時に思考力を育成しなかったことの結果というべきです。そもそも思考力を用いるときは、おのおのの事物について、一つ一つ推論・探求することで事理を解明することが可能です。これまでだれも発見していなかった理論を発見することさえ可能です。以上の点を見ると、学問は思考力を用いるのが最も貴い、ということになります。
引用:開成中学校・高等学校公式ホームページ「教育理念」
また、学ぶ意義についても持論を示しました。以下、開成中学校・高等学校公式ホームページ「教育理念」の内容をまとめたものです。
・どんなものでもよく注意・観察することで学問となる。
・学問の成否はこの注意・観察の程度に左右される。
・学ぶときは模倣ばかりではなく、煩わしくても自分で工夫するとか案出することが大切である。模倣ばかりしていると事物について推論・思考をしなくなってしまう。
開成学園が東大合格者数TOP3に君臨し続ける超進学校である所以は、高橋是清が伝えた「自ら考え、己のみ頼る積極的な学びの姿勢」にあると言えるでしょう。
開成学園の教育理念につながる「学問の活用」とは?
生後間もなく養子に出された是清は、学問、仕事、人づきあいすべてにおいて人に頼ることはせず、”独立自力(他に頼らず自分一人だけの力)”で善処するように務めてきました。
また学問は人がよりよく生きるためのものであるから、学修(学んで身につける)しただけでは不十分である、としています。学んだことを用いて、自分に合った職務を全うすることで、勉強する意義が生まれてくると考えていました。彼は学問の活用を以下のように解釈しています。
学問は古来幾多の先輩が啓発して集めたもので、ただ学問を学修したと云ふのみでは、先輩が遺した図書にも及ばぬと云ふことになる。学問はこれを使ってこそ、始めて、効用がある。その受けた教育を活用してこそ、始めてそこに大なる意義が生じて来るのである。
引用:高橋是清『随想録』中央公論新社,2011,P112「学問の活用」
実践的な学びで「使える学力」を身につける
開成学園、大学予備門(現・東京大学の予備機関)、東京農林学校(現・東京大学農学部の前身)など、複数の進学校の教壇に立ち続けた是清。学問は職務に成功するためのものであり、学問を納めることを目的にしてはならないと、生徒たちに訴えてきました。教育を受け、学修することの目的は、学問を身につけることではなく、学問を活用して社会に貢献することだと考えていたのです。
また教え子たちに、英語学習を通して、欧米の学術文化の知識を取り入れさせます。耐恒寮では、英語のみの授業に加え、外国人との会話の実践学習も取り入れています。石炭を積むために唐津港に立ち寄った外国船の船員たちと、耐恒寮の生徒たちを交流させたのです。今でいうネイティブ講師との英会話レッスンですね。日本人生徒同士でしか使っていなかった英語が、ネイティブスピーカーにも通じることがわかって、生徒たちは非常に喜んだそうです。
このように勉強したことを実際に活用することで、達成感を感じさせ、知的好奇心を養いました。こういった是清の座学にとどまらない、実践的な教えによって、生徒たちは数学・化学・歴史・地理などの教科学習にも深く興味を持って学べるようになったのでしょう。
横浜商業学校(現・横浜市立大学)の卒業式でスピーチを頼まれた際には、学問の意義について以下のように述べています。
実に人生職務に成功すると云ふ事程大切な事はないのであります、従つて人間として職務を有たぬ程恥辱な事はないのであります。
しからば職務に成功する基本は何であるかと申せば、それは教育であります。
以下、略
只修めた学問を実際に応用する事に努力してこそ、始めて教育の効果が現はれるのであります。諸君は学問に呑まれず、学問に使はれず、学問の奴隷とならず、飽迄(あくまで)も学問は自分が使ふべきものであると云ふ固き信念を抱いて職務に邁進せられたいのであります。
引用:高橋是清『随想録』「学窓を巣立つ人へ」,中央公論新社,2011,P363-364
「ペンは剣よりも強し」 国の発展は教育にあり
開成学園の教育理念でもある「ペンは剣よりも強し」(エドワード・ブルワー=リットン,『リシュリューあるいは謀略』,1839年)という言葉を、是清は自著『随想録』の教育論(P351-P361)の中で用いています。そして国民に教育を与えることで、国力を上げることができるとして以下のように述べました。
欧州の諺(ことわざ)に曰く、銅筆(ペン)の力はその鋭なること鉄刀に勝ると、教育の勢いは争戦に勝り、尋常の事物はこれを圧制する事得ざるの謂(いい)なり。
引用:高橋是清『随想録』,「教育論」中央公論新社,2011,P357
教育こそが人々の品性を高め、生活を向上させ、国力を上げるとして、児童教育の重要性を訴えています。そして政府は、国民を教育する義務があり、政府は国民から費用を徴収する権利があるとして、文部省は全国教育を管轄するべきとしています。
政府は教育の事に関係すべき義務あり。
引用:高橋是清『随想録』,「教育論」中央公論新社,2011,P354
また、教育は「お金儲け」のためではなく、子どもの未来のために、誠意と熱意を持った教師が携わるべきだと訴えています。
見るべし欧人の児童教育を重んずるのかくのごとく久しくして、且つ切なる事を、東洋の風習はこれに異なり、明治八年の今日に至るも学問の真価を辨(べん)じ子弟の教育を重んずるもの蓋し十の一、二に過ぎたるべし、偶々学校を設けあるも、固(もと)より真の愛心より出たるは少なし、従来我が国の学校は多くは私立に係り、その主意たるや設立者の生業のためにするを以て先として、生徒の将来を慮かるは第二に在り、これを認めて一種の商業と云ふも可なり。
引用:高橋是清『随想録』,「教育論」中央公論新社,2011,P358
英語の4技能(読む力:Reading、聞く力:Listening、話す力:Speaking、書く力:Writing)を、「英語のみを使った生活」=実技で身につけ、教師、財政家として体制した是清。職や財産を失った時は、人に助力を求めず、自らの英語力を使い図書や新聞の翻訳をして、活路を見出してきました。教え子たちにも、学問に思考力を用いて、学問の奴隷とならず、学問を職務に活かすように諭し続けたのです。
国民教育によって国力を上げた高橋是清
封建的な思想が一般的だった明治時代初期は、学びの機会が与えられたのは一部の上流家庭の子息のみでした。女子供として軽んじられてきた児童、女性への教育の重要性に気づき、実践したことは、現代の児童教育につながる革新的な試みでした。
そんな時代に、「教育で国民の品性を高め、犯罪を減らすことで公財を減らし、国力を上げる」ことを啓蒙した是清は、義務教育のパイオニアと言えるでしょう。
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