2024年09月26日 公開

新紙幣「渋沢栄一」は何した人? 成し遂げた功績とは

これを読めば生涯がわかる!2024年7月より新一万円札の顔、渋沢栄一。この記事では渋沢栄一が何した人か、新紙幣に選ばれた理由、日本資本主義の父と呼ばれた功績や彼が残した教育・福祉についてご紹介します。

新紙幣_渋沢栄一

渋沢栄一は、日本の近代化・産業の発展に大きく貢献した実業家です。「日本資本主義の父」と呼ばれる彼は、銀行、保険、海運、鉄道など、多岐にわたる業種の株式会社を設立し、株式投資をして得た資金で新たな会社を作ることで産業の発展に尽力しました。栄一が設立、運営した企業は約500社。株式取引所・商工会議所などの公共的な機関や団体の設立にも携わることで、安定した景気循環を生み出しました。
教育/福祉事業・慈善活動にも、非常に熱心だった栄一。東京女学館・日本女子大学などの設立、恩賜財団の設立、生活困窮者救済事業・保護教育事業への協力を生涯続けています。
目先の利益ではなく、日本全体を豊かにすることを考えた彼は、教育・福祉の整備にも目を向けています。その功績と教育者としての顔を見ていきましょう。

渋沢栄一が新紙幣の肖像に選ばれた理由とは?・日本の産業革命、経済発展に大きく貢献し、日本資本主義の基礎を作った。

・教育や慈善活動を行い、日本の近代化をリードした。

・偽造しづらい精密な写真が残っていた。

・紙幣にふさわしい肖像だった。

・国民各層に広く知られている。

参考資料:紙幣の肖像の選定理由を教えてください : 財務省

渋沢栄一の功績とは

渋沢栄一が紙幣の顔に選ばれたり、ドラマの主人公に取り上げられたりするほど、国民に知られているのは、彼が「公共の利益を第一とした実業家」だったからでしょう。
栄一が提唱したのは「道徳経済合一説」。経済の発展は道徳と共にあるべきであり、「仁義道徳と生産殖利」はどちらも重要であるという考えです。この理念に従い彼は、銀行の設立、事業の拡大を同時に進めながら、地市教育や保護教育事業にも力を注ぎました。特に知られているのは「東京養育院」ではないでしょうか。東京養育院は、さまざまな事情で生活を維持できなくなった人々を保護し、教育や医療を提供する救貧施設です。栄一は91歳で亡くなるまで、半世紀以上も半世紀以上も東京養育院の院長を務めました。
弱い人・貧しい人に手を差し伸べることが、日本の発展には大切だと訴え続けた栄一。目先の利権にとらわれず、広い視野で銀行・企業・病院・学校などの公的な事業・団体を設立できた背景にはどのような、生い立ちや経緯があったのでしょうか。

参考資料:「渋沢栄一が目指した福祉」(視点・論点) NHK解説委員室

渋沢栄一の略歴

渋沢栄一の実家は、養蚕業と農業を兼業していました。原料の買い入れから製造、販売までを一家で担っていたため、幼いころから仕事を手伝っていた栄一は、商業的な才覚を自然と身につけていきます。そして、5歳から父より漢籍(漢文で書かれた書)の読み方を習い、7歳になると、従兄・尾高惇忠から『論語』や『日本外史』を学ぶようになります。一貫した道徳観と俯瞰的な経済の見方は、幼少期から培われてきたものだったのでしょう。

西暦元号年齢出来事
1840年天保11年0歳武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市)に誕生。
父・渋沢市郎右衛門と母・ゑいは、藍玉の製造販売と養蚕、米・麦・野菜の生産で生計を立てていた。
1847年弘化4年7歳従兄・尾高惇忠から『論語』・四書五経・『日本外史』を学ぶ。
1854年嘉永7年14歳家業の畑作・養蚕・藍葉の買入・藍玉製造販売に奮励。藍葉の仕入れを一人で行うようになる。
1858年安政5年18歳従妹・尾高千代(尾高惇忠の妹)と結婚
1861年文久元年21歳・江戸に出て儒学者・漢学者の海保漁村の門下生となる。

・北辰一刀流(剣術と薙刀術の流派)の千葉栄次郎の道場に入門し、勤皇志士と交友を結び、尊皇攘夷の思想に傾倒する。
1863年文久3年23歳高崎城乗っ取り、横浜焼き討ちを計画するが、従兄の尾高長七郎(惇忠の弟)の説得で計画を中止し、京都に出奔する。
1864年文久4年
元治1年
24歳江戸遊学で知り合った一橋家家臣・平岡円四郎の推挙により一橋慶喜に仕える。
1866年慶應2年26歳将軍が慶喜となったことで、栄一は幕臣になる。
1867年慶應3年27歳フランス・パリで行われた万国博覧会を御勘定格陸軍付調役として視察。ヨーロッパ各国を訪問し、産業・文化の発達の違いに衝撃を受けた。
また、通訳兼案内役として同行していたアレクサンダー・フォン・シーボルトより、語学や諸外国事情を学び、シーボルトの案内で各地で先進的な産業・諸制度を見聞し、知見を深めた。
1868年慶応4年
明治1年
28歳大政奉還に伴い帰国。
駿河国駿府(現在の静岡県静岡市)で慶喜と面会し、「これからは、お前の道を行きなさい」との言葉を拝受する。
1869年明治2年29歳・駿府藩(後の静岡藩)に「商法会所」設立

・明治新政府からの招状により、上京し、民部省租税正となる。民部省改正掛掛長を兼任し、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わる。
1870年明治3年30歳・大蔵少丞となる。

・官営富岡製糸場設置の事務主任となる。
1871年明治4年31歳大蔵省紙幣頭となる。
1872年明治5年32歳・大蔵少輔事務取扱

・抄紙会社(現・王子ホールディングス(株)、日本製紙(株))の設立出願
1873年明治6年33歳・抄紙会社を創立し、大蔵省を辞める。

・日本初の銀行となる第一国立銀行(現・みずほ銀行)を創立し、総監役となる。
1874年明治7年34歳東京会議所共有金取締を嘱託される。
1876年明治9年36歳困窮者・障害者・病人・孤児・老人のための保護施設となる養育院の事務長に就任
1878年明治11年38歳東京商法会議所を創立、会頭になる。
1880年明治13年40歳博愛社(現・日本赤十字社)の社員となり、活動を支援
1881年明治14年41歳東京大学・文学部「日本財政論」の講師を嘱託される。
1882年明治15年42歳妻・千代が死去
1883年明治16年43歳・伊藤兼子と再婚

・日本最初の蒸気力紡績会社である大阪紡績会社相談役となる。

・ 日本初の電力会社である東京電燈会社を創立
1884年明治17年44歳日本初の民営鉄道会社である日本鉄道会社の理事委員になる。
1885年明治18年45歳・日本郵船会社を創立

・東京瓦斯会社を創立し、委員長に就任
1887年明治20年47歳・日本煉瓦製造会社を創立、理事に就任

・東京ホテル(現・帝国ホテル株式会社)を創立・理事長に就任
1888年明治21年48歳・札幌麦酒会社(現・サッポロビール株式会社)を創立

・東京女学館を開校、会計監督を担う。
1889年明治24年51歳東京交換所を創立、委員長に就任
1894年明治27年54歳東京海上保険株式会社(現・東京海上日動火災保険)の取締役となる。
1895年明治28年55歳北越鉄道株式会社を創業、監査役を担う。
1897年明治30年57歳・澁澤倉庫部(現・澁澤倉庫株式会社)開業

・日本女子大学校を設立
1902年明治35年62歳欧米視察で、アメリカ・ルーズベルト大統領と会見をする。
1906年明治39年66歳・東京電力株式会社(現・東京電力ホールディングス株式会社)を創立、取締役に就任

・京阪電気鉄道株式会社を創立
1907年明治40年67歳帝国劇場株式会社を創立
1909年明治42年69歳渡米実業団を組織し、団長となる。渡米してタフト大統領と会見する。
1910年明治43年70歳政府諮問機関の生産調査会を創立し、副会長に就任
1913年大正2年73歳・日本結核予防協会を創立

・日本実業協会を創立し、会長に就任
1914年大正3年74歳中国を訪問し、日中経済界の提携を進める。
1915年大正4年75歳パナマ・太平洋万国博覧会の視察のため渡米し、
ウィルソン大統領と会見する。
1916年大正5年76歳・海外植民学校顧問となる。

・日米関係委員会を創立

・渋沢栄一述『論語と算盤』(東亜堂書房)が刊行される。
1921年大正10年81歳・ワシントン軍縮会議実況視察のため渡米し、ハーディング大統領と会見する。
1926年大正15年
昭和1年
86歳社団法人日本放送協会を創立
1927年昭和2年87歳・日本国際児童親善会を創立、会長に就任

・日米親善人形歓迎会を主催
1928年昭和3年88歳・日本女子高等商業学校の顧問に就任

・日本航空輸送株式会社を創立
1929年昭和4年89歳中央盲人福祉協会を創立、会長に就任
1931年昭和6年91歳老衰のため死去

参考:渋沢栄一年譜

家業の手伝いから経済システムを学ぶ

実家の養蚕・農業に精励していた栄一。15歳頃には農作物の知識のみならず、原料の買い入れ・製造・販売の仕組みを完全に理解していました。幼児期~少年期に家業を一通り経験したことが、後のヨーロッパ視察時に大いに役立ちます。欧米諸国の近代的な経済システム・合理的な諸制度を理解し、受け入れようとする素地が作られていたのです。
家業だけではなく、学問や剣術の習得にも励みました。5歳から父より漢籍の読み方を習い、7歳からは従兄の尾高惇忠から『論語』を学び始めます。四書五経や日本外史についても学び、道徳・礼節・国史などの知識や教養を身につけます。
剣術は神道無念流を学びます。師匠は近隣に住んでいた元川越藩剣術師範の大川平兵衛でした。文武両道の若者に成長した彼は、一本気で自信溢れる性格だったようです。
16歳の頃、岡部藩の岡部陣屋で御用金の上納を命じられた際に、理不尽さに反発する程でした。
そして18歳となった1858年(安政5年)に、惇忠の妹・尾高千代と結婚。3年後の1861年(文久元年)に江戸遊学に出ることとなります。

尊王攘夷派の若者が幕臣となるまで

江戸では、儒学者の海保漁村の門下生となります。また剣術の腕を上げるために、北辰一刀流の千葉栄次郎の道場に入門しますが、そこで勤皇志士と知り合い、親しくなります。勤皇志士とは、封建的身分制度の頂点天皇であるべきだと考える思想を持つ者のこと。栄一は友人の影響から尊皇攘夷の思想に目覚め、幕府を倒す計画を練り始めます。
その計画は、次のようなものでした。

1.高崎城を乗っ取る。

2.武器を奪う。

3.横浜外国人居留地を焼き討ち

4.長州藩と協力して倒幕

この計画を文久3年(1863年)に、従兄弟・尾高惇忠や渋沢喜作らと実行しようとしますが、惇忠の弟の尾高長七郎が説得したことで中止となりました。
親族に迷惑が掛からぬよう、父から勘当されたことにして、喜作と共に京都に出奔した栄一。
折しも京都は、八月十八日の政変直後でした。八月十八日の政変とは、孝明天皇・中川宮朝彦親王・会津藩・薩摩藩など幕府への攘夷委任支持派が、攘夷親征派の三条実美ら急進的な尊攘派公家と長州藩を朝廷から排除したクーデター。
志士活動ができない状態となった栄一と喜作は、居場所がありません。その頃再会したのが江戸で交友関係のあった一橋家家臣・平岡円四郎でした。彼の推挙により栄一と喜作は一橋慶喜に仕えることとなるのです。
そして、慶喜が将軍となった慶応2年(1866年)、26歳の栄一は幕臣となります。

パリの万国博覧会で欧米文化に感銘を受ける

1867年(慶応3年)、パリで行われた万国博覧会に、栄一は将軍の名代・徳川昭武の随員として参加します。肩書は御勘定格陸軍付調役。
共に渡航した通訳兼案内役であったアレクサンダー・フォン・シーボルトは、栄一に語学や諸外国事情を教えてくれました。パリ万博・ヨーロッパ各国の視察中、シーボルトの案内で各地で先進的な産業・諸制度を学んだことで、栄一は欧米の近代社会の仕組みを理解し、感銘を受けることとなります。ヨーロッパ文明と人間平等主義に強く心を動かされた栄一は、ヨーロッパ視察中に髷を切り、洋装で過ごすようになっていました。大政奉還に伴い、1868年(慶応4年)に新政府から帰国を命じられた昭武と栄一は帰国の途に就きます。約1年半のヨーロッパ視察でした。

上京し、大蔵省へ

帰国後、栄一は駿府の宝台院(現・静岡市葵区常磐町二丁目)で謹慎中の徳川慶喜と面会します。慶喜から「これからは、お前の道を行きなさい」と告げられますが、これまでの恩に報いるために、静岡藩に出仕することを決めます。彼はヨーロッパ視察で学んだ経済システムを早速、静岡藩に取り入れて実践します。1年にも満たない短期間で、株式会社制度の実践や、新政府からの借金返済のための商法会議所の設立などを行います。
栄一に明治新政府からの招状が届いたのは1869年(明治2年)。上京した彼に与えられた役職は民部省租税正ですが、辞任して静岡藩に戻るつもりでした。しかし大隈重信らの説得を受けたことで、出仕を決めました。
民部省では掛長として度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わります。そして、1871年(明治4年)に民部省が大蔵省に統合されたことで、栄一は芳川顕正紙幣頭の下で大蔵権大丞となりました。出世のスピードは速く、翌年1872年(明治5年)には、大蔵省三等出仕となり、紙幣寮(現・国立印刷局)の頭に就任します。井上馨・吉田清成と連携して造幣の事務に勤しみ、ゲルマン紙幣と呼ばれる、ドイツで印刷された明治通宝を取り扱うようになります。日本で初めての近代的な印刷技術で作られた紙幣です。
また大蔵省主導で行われた、東京の大火からの再建では、井上馨・三島通庸らとともに煉瓦造りの街並みを計画します。しかし、予算編成をめぐって大久保利通や大隈重信と対立。1873年(明治6年)、栄一は井上馨・吉田清成と共同で財政改革意見を建議します。建議書を『日新真事誌』などに掲載して、周知させようとします。内閣と大蔵省の対立の中心となってしまった栄一は、井上馨と共に辞職することを選びました。

辞職して実業家へ。日本経済・産業の基礎を築く

大蔵省退職後、栄一は休むことなく銀行・事業会社の設立に着手します。ヨーロッパ視察で得た知見と大蔵省での勤務経験を活かし、50年以上実業家として成功し続けることとなります。彼が設立した銀行・事業会社は500以上。現在も残っている銀行・企業も多数あり、渋沢栄一は「日本近代資本主義の父」と呼ばれています。
日本経済の礎となった栄一が設立した銀行・企業を見ていきましょう。

日本初の銀行の設立

33歳で大蔵省を辞めた栄一は、井上馨やアレクサンダー・フォン・シーボルトらの協力も得て、1873年(明治6年)に第一国立銀行(現:みずほ銀行)を設立し、総監役に就任します。日本最初の銀行の誕生です。
1874年(明治7年)に二大株主の一つ小野組が破綻したことで、もう一つの株主である三井組の単独経営に陥りそうになります。栄一は小野組の古河市兵衛のサポートを受け、三井組による銀行経営の独占を防ぎ、自ら頭取となり、財閥の機関銀行的な運営から脱却します。これにより、現在のような民間取引をベースとした銀行の路線が確立されたのです。
栄一は公益となる新興の商工業者の資金支援や創業指導を重点的に行い、銀行の規模を拡大していきました。全国に展開されていた国立銀行の指導・支援は、彼が第一国立銀行を通じて行ったため、経営は安定していきました。
栄一が設立、運営に携わった主な銀行は下記の通り。

第一国立銀行(現:みずほ銀行)
・東京貯蓄銀行(現・りそな銀行)・熊谷銀行(現・埼玉りそな銀行)・黒須銀行(現・埼玉りそな銀行)・日本勧業銀行(現・みずほ銀行)

・日本興業銀行(現・みずほ銀行)

・北海道拓殖銀行(現・北洋銀行)

製造・建設・ライフライン・・・日本近代化を進めた事業会社の設立

1873年(明治6年)、栄一は第一国立銀行設立と同時進行で、大蔵省時代から構想を練っていた抄紙会社(現:王子ホールディングス、日本製紙)の経営に着手。さらに同年にガス事業計画推進のために、東京府の瓦斯掛(現:東京ガス)の委員に就任します。その後も第一国立銀行の資金を糧に、建設業・鉄道業・電気業・運輸業・保険業など、さまざまな事業の創業を支援。現存する大企業の中には、彼が設立、支援した事業会社が基礎となっているものも多いです。
栄一が設立・支援した主な企業を挙げてみましょう。

・抄紙会社(現:王子ホールディングス、日本製紙)

・瓦斯掛(現:東京ガス)

・石川島平野造船所(現・IHI・いすゞ自動車・立飛ホールディングズ)

・秀英舎(現・大日本印刷)

・中外物価新報(現・日本経済新聞)

・東京海上保険会社(現・東京海上日動火災保険)

・日本鉄道会社(現・東日本旅客鉄道)

・東京電灯会社(現・東京電力ホールディングス)

・大阪紡績会社(現・東洋紡)

・浅野セメント工場(現・太平洋セメント)

・ジャパンブリュワリー(現・キリンホールディングス)

・東京ホテル(現・帝国ホテル)

他多数

現在の私たちの暮らしを支える企業が多いですね。驚くことに栄一は80代後半まで企業設立・開業支援/相談を行っていました。その経営手腕の高さと人望の厚さに驚かされます。

養老院から始まった福祉・医療事業

その後、1931(昭和6)年に亡くなるまで約50年間養育院院長を務めました。1876年(明治9年)から栄一は、病気の者・困窮者・孤児・老人・障害者の保護施設となる「東京市養老院」の事務長に就任します。
明治初期の東京は、明治維新後の混乱のため、生活困窮者が急増していました。東京で唯一の公的な福祉施設だった養老院ですが、東京議会の有力者から「税金で困窮者を養うのは、国民を怠け者にする」という声が挙がり始めます。養老院廃止を訴える彼らに、栄一は「病気や災害や失業で貧しくなる人々は多い。彼らを救うのは人の道であり、政治の役割である」と反論し、存続を訴えました。
補助金が打ち切られた時は、フランス視察で学んだ慈善バザーを思い出し、経営危機を乗り切ります。友人知人の協力を得て、鹿鳴館で日本初のバザーを実施し、運営資金を調達したのです。
栄一はこのことをきっかけに、日本赤十字社の支援・日本女子大学の創設など医療・教育分野への資金集めを積極的に行うようになります。個人や企業が所得に応じて寄付を行ったり、ボランティア活動を行ったりすることで、社会課題解決に取り組む「フィランソロピー」の先駆けと言えるでしょう。
栄一が設立・協力した福祉・医療事業は以下の通りです。

・東京市養老院(現・東京都健康長寿医療センター)

・日本赤十字社

・東京慈恵医院(現:東京慈恵会)

・癌研究会(現:がん研究会、がん研有明病院)

参考資料:「渋沢栄一が目指した福祉」(視点・論点) NHK解説委員室

教育事業で国力の向上を目指す

実業教育(実業に必要な知識・技術を習得させる教育)は浸透していなかった明治初期。1875年(明治8年)に栄一は、森有礼らが設立した商業講習私塾を、東京会議所が所管する商法講習所(現・一橋大学)とし、商人を経済人にするための高度な実業教育を行いました。商法講習所では英語教育が重要視され、授業は英語で進行。銀行や模擬貨幣を用いた実践的な商取引の授業なども行われました。
栄一は教壇に立つこともありました。1881年〜1883年(明治14年〜16年)には、文学部講師として東京大学で「日本財政論」を講義します。
さらに1888年(明治21年)に工手学校(現:工学院大学)設立を支援、1900年(明治33年)には大倉商業学校(現:東京経済大学)の創立に協力。教育の整備を行うことが、国力の充実につながると考えていた彼は、実業教育の推進に尽力し続けます。

伊藤博文や勝海舟と協力し女子教育を支援

フランスや欧米諸国への視察、アメリカ大統領との面会など、欧米での女性の活躍ぶりを見る機会があった栄一は、女子教育の重要性にいち早く気づいていました。ただ当時の日本は男尊女卑が当たり前の風潮だったため「女に学問は不要」と考える人が男女共に多かったのです。逆風の中、1887年(明治20年)に伊藤博文・勝海舟らの協力を得て、東京女学館を設立しました。
また1901年(明治34年)には、日本初の女子高等教育機関となる日本女子大学の創立を支援、校長を引き受けます。栄一は実業界引退後も東京女学館の館長と日本女子大学の校長を続け、女子教育の発展を支援し続けました。
彼は自信の著書『論語と算盤』で次のように述べています。男女平等教育の必要性に気づき、実践した栄一の信念を表していますね。

女性にも男性と同じ国民としての 才能や知恵、道徳を与え、ともに助け合っていかなければならない。

引用:渋沢栄一『論語と算盤』,第九章「教育と情誼」

生涯貫いた「道徳経済合一」の信念

渋沢栄一は、企業や個人の利益の追求は、公益につながるべきであるとした「道徳経済合一説」を生涯提唱しました。この考えの根底には、少年期に学んだ『論語』の道徳観と、経済の普遍的な法則があります。実業家・教育家・慈善家として、大成功をしながらも、支援者が絶えなかった理由は、彼が私利私欲のみの追求ではなく、国を豊かにすることに結びつく事業を行っていたからです。
経済的弱者への救済・商人や女性への高等教育の実践は、目先の金銭的利益は乏しいかもしれませんが、長期的に見れば国の生産性を確実に上げる取り組みです。国民生活を豊かにするために、さまざま事業を展開した栄一は近代日本資本主義のみならず、「女子教育・フィランソロピー」の父とも言えるでしょう。

▼渋沢栄一についてもっと知りたい方はこちらの学習漫画もおすすめです

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この記事のライター

AOTANAOAO
AOTANAOAO

2015年よりライターと鞄・アパレル雑貨メーカーのWEBモデルの仕事をしています。Chiik!!では幼稚園入試、英語学童、インターナショナルスクール、親子で作れる知育玩具などの記事を執筆。 教育・健康・レジャー・ファッションなど、「日常生活がより豊かに楽しく送れる」ような情報記事を書いております。