「たまやー!」「かぎやー!」とは、夏の夜に咲く花火を称賛する掛け声ですが、その意味をご存知ですか?なんとなく掛け声を言いながら花火を観ている方も多いのではないでしょうか。今回は意外に知られていない、花火の掛け声の裏側に隠されている歴史の真実をご紹介します。
世界の花火のルーツは?どこからはじまったの?
当初は戦争の武器として使われることが多く、花火としての体裁が整ってからもそのほとんどは権力者が自分たちの力を誇示するために使用していました。
13世紀に入り花火は中国からヨーロッパへ伝わり、全世界へと広がっていったのです。
日本の花火のルーツは?どこからはじまったの?
日本ではじめて花火を見たのは1613年の駿府城で、イギリスから献上された花火をみた徳川家康が最初だと言われています。しかし、伊達政宗が中国人から献上された花火を見たのがはじめてという説もあり、真実は歴史のベールの中に隠されたままになっています。
「たまやー!」「かぎやー!」って、なんのこと?
たまやは「玉屋」、かぎやは「鍵屋」と書きます。字を見れば一目瞭然ですが、これは屋号、つまり花火屋さんの名前です。
まず1659年に鍵屋が、大和国(現在の奈良県)から江戸に出てきた初代の孫兵衛により創業されました。鍵屋は順調に業績を伸ばし、4代目の時代には江戸幕府御用商にまで成長します。
8代目のとき、のれん分けを許された番頭の清吉が玉屋を創業し、江戸には鍵屋と玉屋、二大花火師が看板を挙げることになります。
その後、両国の川開きといえば鍵屋と玉屋の花火が定番となり、民衆の人気を博しますがその競演も長くは続きませんでした。玉屋が大きな失火によって江戸所払いとなってしまったのです。
1843年に起こった「たまやの火事」
ところが、1843年(天保14年)4月17日、悲劇は起こりました。
玉屋の失火により、玉屋ばかりではなく周辺の江戸の町の半町(約1,500坪)が焼けてしまったのです。
当時の法律では失火は重罪が課せられており、玉屋は財産没収のうえ市兵衛は江戸から追放になり、その後玉屋は断絶してしまいました。
江戸の花火の人気を二分していた鍵屋と玉屋の競演の時代は、わずか30年あまりで終わりを告げたのです。
一方鍵屋は操業を続け、現在では天野氏が打ち上げ専門業者として鍵屋ののれんを受け継いでいます。
「たまやー!」「かぎやー!」
活気あふれる花火称賛の掛け声。
その裏側には、江戸の人気を二分した花火師の辿った、運命の明暗が隠されているのです。